ライオンの号泣

戦争の時の父の梁田貞先生にまつわる美しい思い出です。

「終戦のころ」 『ライオンの号泣』                      阿部  貫行

 

昨年、東京銀座の日本楽器で或るつどいがあった。参加者は「城ヶ島の雨」、「どんぐりころころ」などの名曲を作曲された梁田貞先生を偲ぶ中学時代の教え子約三十名と現役の後輩である。私は音楽は全くの問題漢だがどうしてか招かれたのだった。ほとんど六十才以上で、四十代は私一人のようだった。第一生命の元社長矢野一郎先輩が両目不自由の身をおして見えられた。

梁田先生は、わが母校(今の都立日比谷高校)に大正元年芸大から赴任され、以後昭和二十四年まで三十八年間座在任されたが、矢野先輩の話によると「城ヶ島の雨」を作曲されたのは、赴任された翌年である。矢野先輩の著書「どんぐり帖」のなかに、『葬儀の日に小松耕輔さんは「梁田君のえらかったことは、あのころ原語で歌を教えることを始めたことです。だれもやっていなかったことです。」と述解されていた』とあり『見事な技巧をもったすばらしいテノール歌手だった。この人が独唱家として世に立ったならば、おそらく不滅の名声を残したことは疑う余地がない』ともしるされている。

昭和二十年春、私は中学一年。戦争も末期で連日空襲警報のサイレンが鳴り止まぬ頃だった。最初の音楽の時間に私は異様な興奮に身を包まれた。ライオン(先生のあだ名)が仁王立ちになって英語、独乙語で「庭の千草」と「野ばら」を歌われたのだが、その豊かな声量で窓のガラスが割れるのではないかと思った。感激で頬の震えもしばしやまなかった。そしてさらにショックを受けたのは、私達教え子に対して「あなたがた・・・・・」と言われたことだった。中学一年生を紳士扱いにした・・・・・。

何日かの後、何の話からだったか記憶がはっきりしないが「アメリカのかたがた、イギリスのかたがた」と言われた時はもっと驚いた。このときばかりは腕白盛りの一同が息をのみシーンとなってしまった。当時「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチル、チルチル首が散る首が散る」と歌われていたように「鬼畜米英」が合言葉のときである。陸軍士官が連日上級生に軍事教練をしているなかでの言葉。まさに国賊。頭が鉄槌でなぐられたようだった。先生の崇高な人格が、私の心の奥底に戦争の愚を芽生えさせた一瞬なのであった。先生は戦争を超越されておられたのだった。

先生が学校を去られるとき、全校生徒を前にして、壇上で礼をしたが一言も喋らない。長い時間の後「皆さん紳士になって下さい」と言ったきり両手で顔を覆い立ちつくされてしまった。しばらくして、嗚咽しながら壇を降り、その大きな体が大講堂の大きな扉の影に消え去った。ライオンの号泣があんなに美しいものとは思わなかった。

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この手記は、1978年秀英塾の父母による「子らに伝える戦争の話」より抜粋しました。この文章は後に日比谷高校卒業生による「みまかりし友を偲びて」という冊子に末尾を足して再録されました。

2025年4月あずなは家のお墓参りの際、同じ小平霊園の梁田先生のお墓参りをしました。作曲された「城ヶ島の雨」の楽譜の石碑が置かれ、まだ新しいお花がいけてありました。

 

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